F→C

このタイトル、音楽を知っている人ならイメージつくと思いますが、
キーがFでもCでも、非常に安定したコード進行になりますよね。

さて。
今回は、まとまらないように書くつもりです。

先日、ちょっとしたやりとりの中、
「どういう肩書として在宅ケアに従事するか」に、
わたしは、「ただの人」と答えました。

なんか、こう書き出してみると斜に構えている感じもしますが、
まったくそんなつもりはなく、以前から自分なりに決めていることだというのと、
相手の方が、この人ならわかってくれるだろうという方だったので、
すんなりそう答えてしまいました。

もちろん、医療介護の知識や手技を軽視して発言しているわけではありません。
自分自身の心持ちとして、クリティカルな意味合いのもとで決めていることです。

わたしが学生の頃、色々な事物が「終わった」風潮が流行りました。
実際、何かが終わったのでしょう。「終わってる」てのもありましたね。
その当人の脳の中にないものは表現されないと考えているので、
わたしは、「終わってるとしたら、そう言っている本人だ」と感じていました。
決して非難しているわけじゃないのです。
当人にとって「約束されていた役割」が終わったはずだからです。

小難しいところは優秀な批評家の方々にまかせるとして、
その意味において、「ただの人」を回復するプロセスが必要だと思っていましたし、
いわゆる先進国家と対立様相にある某有名宗教への入信なども、
実はまともに検討したりしてました(笑)

フェリーニ監督の『8 1/2』という映画をご覧になったことありますか?
劇中の重要なシーンでこんなセリフ(字幕ママ)があります。
「人生は祭りだ。共に生きよう。」

しかし、これ、映画ファンの間では誤訳だと言われています。
「人生はカーニバルだ。共に生きよう。」
であるべきだ、と。

祭りは“festival”です。では、festivalとcarnivalの違いはなんでしょうか。
端的に、前者は鑑賞型、後者は参加型、というニュアンスの違いがあります。

わたしが、あちこちで「リデザイン」と言っているのは、そういうことです。
今までの役割を担うだけでは、対岸の火事を眺めているだけでは、
もうコミュニティは成り立たないと考えているのです。

F(estival)→C(arnival)

このことを実現したいのは、
仕事だから、得意だから、必要だから、というより、
自分自身の「生存欲求」にかぎりなく近い理由によるもので、
つまり、何より面白いと感じられているからなのです。

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