この季節に思い出すこと

毎年この時期は、戦争に関する良質のドキュメンタリーが連日放映されますが、
今年は特に迫力ある番組が多い印象で、たくさん観ています。

わたしの祖父は終戦時(個人的には敗戦時と言わないのが違和感あるのですが…)、
23歳でした。今は、同い年の祖母と施設で暮らしています。
今まで二度ほど、戦争についての本当の話を聞きたくて訊ねたことがあるのですが、
何処から出発してどこへ帰ってきたとか、当時のあの場所はこんな風だったとか、
風景的なエピソード以外は、あまり話してくれませんでした。
でも数年前、祖父母とわたしとで飲みながら話しているときにふと戦争の話になったら、
祖母に向かって「断じて、おれは断じてひとを殺めてねえ」と語気を強めて言いました。
戦争に行ったのだから敵を殺めることは平常で、むしろ称えられる行為なはずなのに、です。

いったい「責任」とはなんなのだろうと言葉に詰まります。
23歳の未来ある男性が国の命令によって戦地へ赴き、
そこでの自分の行動を70年以上たった今でも、
自分で、否定し続けているんです。

わたしは、終戦時の「責任」のとり方を間違えたゆえ、
今も長らく続く日本人の無責任さに脈々と受け継がれてしまっている気がします。

責任を追及されるなら死ぬ、というあやうさがあると感じませんか?
本来は、責任を取るからこそ「個人(個体)」でいられるはずだと思うのですが、
現実は、いつも「世間」ばかりを気にして向き合っていないでしょうか。

わりとごっちゃにしている人が多いですが、
責任を追及することと原因を探求することはまったく別です。
「わたし」を維持するためには責任の追及が必要で、
「あなた」を尊重するためには原因の探求が必要なんです。

祖父について、いつも感じてしまうことがあります。

平和(のよう)な現在がありそれを享受している者たちがいて、
その者たちのなんとなくの同意のもとで世間は成り立っています。
祖父が戦地で何をしたかはわかりませんし、
言いたくないことまで突っ込んで聞くつもりもありません。
が、祖父に兵として、人としての責任があるとして、
今の世間の一部であるわたしには責任はないのでしょうか?

むしろ、祖父に自由に語らせてあげることができない自分こそ、
本当の残酷な存在ではないのか? そう感じてしまう時すらあります。

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