以前、
「日本人には宗教がない」と書いた作家がいました。
「血縁に重きを置いたまま近代化した国」と言った僧侶がいました。
実はこのふたつ、私が在宅ケアにかかわりたいと考えた動機、ほぼそのままです。
おそらく現代の日本人は、
血縁・地縁に重心をかけたまま個人主義をめざして、
経済成長に便乗してなんとなくの体裁はつくろったけれど、
個人の言動を映し出す鏡を持っていないままなんです。
けっして血縁や地縁を否定するわけではありません。
が、血縁からもっとも遠く離れた個人を肯定する方法に欠けるのは、
社会としてとても不利だ、と考えています。
道徳があっても倫理がない、と言い換えてもいいです。
メディアやそれを欲する人々が、犯罪者の家族を追い込んでいるのを見ると、
私はどうにもやりきれなく、ハラワタ煮え繰ります。
あの歪んだいじめも、おそらく前記のことが源泉になっていると思います。
責任をとることと原因を探すことはまったく別なんです。
「わたし」を存続するためには責任をとらなきゃいけないし、
「あなた」を尊重するためには原因を探らなきゃいけない。
さて、
かと言って私は、宗教をでっちあげたいわけじゃありません。
またどっかから輸入してくればいいじゃん、とも思いません。
でも、地縁から遠く離れた個人を映し出す鏡、その鏡がある彼岸、
みたいなものは生み出せるんじゃないかと考えています。
その役目を在宅ケアステーションが果たせないか、と考えています。
以前にも書きましたが、障害や疾病や老いは、
職業・家柄・人格など、いっさい関係なく誰の身にも起こりうるものです。
そのひと個人が引き受けなければならないものです。
私たちは、苦しかったり、痛かったり、心細かったり、怖かったりする
ごまかしようのない個人を訪問し、味方になります。肯定します。
福祉というものは、社会が高度に機能すればいらないものかもしれません。
そのレベルに達していないから、わざわざつくられたものかもしれません。
裏を返せば、福祉に関わるものは、社会すべてにかかわりを持てるということです。
宗教としての宗教じゃなく、
個人が生きる陰影を映し出すものとしての宗教、
在宅ケアステーションが、その鏡として存在できないか、
そういう社会のデザインができないか、と考えています。
もちろん、実践的であるかぎりにおいて、です。