以前のエントリーにもちょろっと書きましたが、
私は某アーティストレーベルに所属して創作活動をしています。
おもにテキストとディレクションを担当しているのですが、
つい最近あることに気づきました。
創作に取りかかるとき、いろんな音を聴いたり映画を観たり本を読んだり散歩したりして、
創作モードに入っていくのですが、必ずいつも同じ数冊の本を外さず読んでいることに、
つい最近気づきました。
『ダブリン市民』、『カフカ短編集』、『泥棒日記』です。
はて、これはどういうことなんだろう。
と思いふけってみると、自分なりに気づいた理由が、
この3冊は、自分にとってパクリようのない感じがするなあ、ということでした。
すごく遠く、すごく近く、はっきりと存在は感じる。
説得しようのない、他者とでも言うのでしょうかね。
一方で、訪問看護ステーションを経営する者としての他者は、
どういう存在を指すのでしょうか。これには、即答できます。
なぜなら、私は、自分が死んだ後のことはあまり考えないけれど、
まだ生まれてきていない人のことは考えてしまうときがあるからです。
つまり、私は自分さえよければいい気質の人間ですが、
かといって、自分がオイシイおもいをするための負債を、
まだ生まれてきていない人に背負わせるのは不当だと感じる人間でもあります。
その人たちは、
すごく遠く、すごく近く、はっきりと存在は感じる。
言い訳しようのない、他者と言うべきですよね。
じゃあ、おれにはなにができるんだろう。
と、打つべき一手をあれやこれやと思案しています。
ならば、どういう態度で一手を思案するべきだろうか。
輪廻転生という言葉、意味を取り違えている人が多いみたいですが、
こういうときに役に立つ言葉です。
輪廻=めぐり、転生=うまれかわり、というイメージを組み合わせて、
「すべての命は生まれかわる」とぼんやり捉えている人が多いですが、
本来の意味と用法はまるで違います。本来は、
もう一度生まれ変わって人生をやり直せたとしても、
自分はまったく同じ道を辿り、同じ間違いをし、同じ誘惑に負け、同じ苦しみを味わう。
それなら、さて、いまの自分は次の一手をどう考えるべきなのだ?
という、自分自身に対する戒め、覚悟、哲学、ですね。
判断を迫られる場面など、私はわりとこの戒めを腹にこめます。
在宅ケアにおける次の一手、なんせ面白そうじゃありません?