今日2/7は久しぶりに陽射しらしい陽射しを浴びた気がする。コロナ禍で外出を控えていたのもあるが、ようやく冬の裂け目から春が射し込んでくるのを感じられる気候だった。近場の公園のベンチに腰掛けていると、陽射しをうけている背中が少し暑くすら感じた。
とある方のツイートで、かなり前の記憶がふとしたきっかけから鮮明に想起されてくるその不思議さ、を目にして共感できるところがあったので、書いてみようと思った。
私は北関東にある旧赤線地帯で祖父母が営む酒屋で生まれた。生まれてしばらくして引っ越しているのだが、よく祖父母宅に預けられていたこともあって、とても印象深い母屋だ。自分自身、その祖父母にとても影響を受けている気がするし、まわりの人からも風情が祖父に似ていると幾度か言われてきた。あとから知ったのだが、長男は母父に似る説があるらしい。
祖父は、四人兄弟の末っ子だった。上の兄二人は東京帝国大学を出たものの戦死。三番目の頭がキレ過ぎるためにまわりが扱いに困っていた兄は、これまた東京帝国大学を出たあと一応酒屋を継ぎつつ風来坊のように暮らしていた。そして末っ子の祖父は芸事に秀でていたらしく、早くから着物のデザインと絵付けで仕事を得ていた。名前が知られてくると地方まで教えに行くことも増えてきて、より染料について学ぶため早稲田大学に在籍して研究もしていた。
ある日、祖父の元に三番目の兄の訃報が届く。どうやら、伊豆で芸者と心中したらしい。
祖父は、滞在していた東京から兄の遺体を引き取りに行き、そのまま大学から去り、酒屋を継いだ。それから10数年後に母が生まれ、さらに20年以上後に私が生まれる。
かたや祖母は、時代が違えばカルチャーセンターみたいのをつくっていたような人だった。ありとあらゆる免状を持っていて、酒屋の奥の部屋でたくさんのお弟子さんに稽古をつけていた。私は幼稚園に入る前から、詩吟や舞踊の稽古にギャラリーとして参加させてもらえて、その時間がとても好きだった。もちろん孫だからといって特別扱いなどなく、稽古を見学する条件は、始まりと終わりの挨拶をお弟子さんと同様にすることだった。着物の匂いや、お弟子さんたちが出す声や空気感など、いまだに感触としておぼえている。
酒屋の店番をしながら、近場の料亭からヘルプ要請が入れば夜中であろうと出かけて行って、仲居さんとして働き、料理を手伝い、おまけにお座敷で踊と唄を披露してチップをもらい、ついでに酒類の注文もとってくる。翌日はまた店番と稽古。時間が空けば東京に飛んで行って銀座を闊歩する。なのに、色々思い返してみても彼女の疲れた表情を見た記憶がない。商いをすること、生きること、そういう次元での覚悟がまるで現代人と違う気がする。千代の富士の大ファンで、ドリフを見て涙流して爆笑する、そういう人だった。何を隠そう、ファーストキスを奪われたのも彼女だ。抵抗する間もない勢いだった。
祖父は寡黙な人だった。叱られた記憶はない。が、どこかしら遠い人だ。水の中で会っていたような感じというか。実は三十代にうつ病で5年間寝たきりだったことや、酒屋を継いだきっかけなどを含め、私が祖父の過去を知ったのは祖父が亡くなった後で、こどもの私にとっては「なんか、謎を知ってそうな人」だった。
私は図工が得意だったので、油粘土でつくった造形などを見せたことがあり、それをほめてくれるのがうれしかった。ほめてくれた上で「ここをな、ちょっとこうして」とほんの二、三手くわえるだけで見違えるものになった時、ひとの手仕事の凄さを知った。ある程度の年齢の人なら知っているだろうが、当時の新聞広告は片面だけで裏面はメモに使えた。祖父は広告の裏面にふと思い返したようにささっとスケッチすることがあったのだが、モチーフは高松塚古墳壁画とかそういうレベルで、まあまあうまくいくと水彩で色付けをしていた。小学校の社会の授業で高松塚古墳壁画が出てきた時、「これ、じいちゃん家にあるよ」と発言したことがある。
それからしばらくたった頃、生気が落ち込んできた祖父を元気付けようと、私の親が画材のセットを贈ったことがある。が、やはり描きはしなかった。また私が、祖父がかつて早稲田に在籍し不本意に除籍となったことを知らずに早稲田に入ることを伝えた時も「そうか、よかったなあ」と穏やかに笑っていた。祖父の謎を心地よく感じていた自分が嫌になる。
こういう感情が湧き上がってきた時、自分は感情の整理をするのがつくづく苦手な人間だと思う。きっと整理してはいけない、まとめると霧消してしまう感情なんだとも思う。まとめる資格がない、とも。
ところで、祖父の酒屋に行くと毎回うれしかったことのひとつが、店先の自販機で売っていた炭酸飲料を飲ませてもらえたことだ。こどもなりに工夫して、炭酸飲料と果汁ジュースをまぜると美味しいことに気づいていた。
酒屋の二階には昔ながらの窓があって、こどもの私は、そこにひとり腰掛けて路地を覗きこんだり空想に耽ったりするのが好きだった。祖父は帳簿をつける時、いつもその部屋で腰を落ち着けて作業するのだった。それを邪魔しないようにじっと見ているのも好きだった。階下の奥の部屋からは、祖母が稽古をつける音が聞こえる。目の前では、祖父が帳簿とにらめっこしながらそろばんをはじく音が聞こえる。
二階の窓に腰掛けている私は、オレンジジュースをキリンレモンで割って飲んでいた。きっとあの日も、背中にあたっている陽射しを少し暑く感じていた。