元特攻隊員で、寸前で敗戦を迎えたため出撃しなかった方を担当させていただいたことがある。数年前に亡くなられたが、この季節には毎年その方を思い出す。
きっと、まとまりのない文章になるが、怯まずに書いてみたい。
第二次大戦時の日本軍兵士の死因は、実は6割以上が餓死あるいは感染による病死と言われている。正直、現在に続く政府の施策を見てもおおよそ妥当な数字ではないかと思う。かねてから私は「忠臣蔵が嫌い」と公言しているように、自分に続く者を生存の危機に向かわせる方法論が嫌いだ。たとえどんなに高尚な正義やカタルシスと交換がきくにせよ、未来ある者の生命と精神の可能性を奪うことは絶対に間違いだと考えている。たとえその時点より堕ちていくしかない可能性だったと後にわかる場合があるとしても。
その上で、だが。
先述の元特攻隊員の方から初対面時に「ぼくは予科練出身なんだよ」と切り出された時、自分の中に明らかなバイアスがあるのを感じた。本人という重み、迫力に対峙することは、自分をあらわにしてくれる。特権的に扱いたい、忌み嫌う事実の登場人物、特攻隊員に烙印を押しているのは、世間ではなく自分自身に他ならない。向かい合ったことがない、当然清算などできない。そして、私の祖父も出征していたことやまだ存命であることなどをお伝えすると、少しずつ当時のことを話してくださるようになった。
自分にはエリートの矜持があったこと、ほとんどの者が進学できない時代に選ばれし者として勉学や武道に励めたことをありがたく思っていること、それだけ恵まれているのだから特攻も自分の運命として受け入れようとしていたこと、など。でも、ひとつだけいまだに悔やみ苦しんでいることがある。
友人と二人で腰掛けて話していた時、なんらかの口論になってしまい、友人がそこから身を翻して去ろうとした時、つまり動くものとして目立ってしまった時、目の前で友人が機銃掃射によって木っ端微塵になってしまった。あの時、友人に言ってしまった言葉、それによって自分だけが助かったこと、そのことを、毎晩毎晩、何十年もずっと詫びていると。
それなりの年齢になった者なら、思い出して眠れなくなる苦い記憶のひとつやふたつあるだろう。状況の過酷さや激しさの次元は違うとしても、人として当たり前の苦しみ方をしている人が目の前にいる。人は、自分を正当化しなければならない時、最も苦しむのだ。この人は、戦後の世界から「あなたはあなたなりに幸せになっていい、なるべきなんだ」と一度でもメッセージを受け取ったことがあるのだろうか、過去も未来も肯定されたことがあるのだろうか、と思った。その方は終戦後、ご商売で成功されて豊かな暮らしをされていた。まわりから見れば素敵な一家だっただろう。が、毎晩そんな苦しみを抱えていたのだ。
「明日、群馬の祖父に会いにいくんです」と言った時、こう諭されたことがある。「内山くんね、これだけはわかってほしい。ぼくの息子は芸能で成功者になっているけれど、自慢話ばかりでそうそう顔も見せにこない。そんなことより、きみがおじいさんの何でもない話し相手になっていることが、どれだけおじいさんを救っているか、励ましているかしれないんだよ」と、あれほど毅然とした人に嗚咽をこらえて諭された。この人の息子は、息子本人だけなんだろうか。息子本人にならずとも、この人が生きているうちに話したかったこと、それに耳を傾けられる人、たくさんいたはずじゃないのか。
いったい私は何を憎むべきなのか。
先ほどの祖父に会いにいく前日、ケアが終わり退室する際にその方は「どうか、おじいさんによろしくお伝えください」と、見送りに来てくれた玄関先で杖を置き、少しよろけながら敬礼をされた。うしろで奥様が「そんなことされたって困らせちゃうだけよ」と笑いながら諌めていた。
このひどい出来の、まとまりのない混乱した文章を、いまとある特養でほとんど寝たまま過ごしていて、コロナ禍ゆえに面会が禁止されている、私の祖父に捧げたいと思う。
じいちゃん、もう体動かすのしんどいだろうし敬礼なんてできないだろうけど、したくなったらいつでも、おれなんかでよければ遠慮なくしていいよ。