古井由吉さんの『人生の色気』というエッセイ集があります。
大好きな一冊で、ことあるごとに何度も読み返しています。
その中に、個人的にハッとさせられた指摘がありました。
だいたい「最近の男性に色気が足りないと感じるのは、冠婚葬祭の特に葬で、
ああいう場面でサマにならない人が増えた」という趣旨の指摘でした。
葬儀のような、静謐な「形」を重んじる場面においては、
装飾の手段が極端に少ないので、ほぼその人の内面しか見えてこない、
むしろ、内面らしき風情だけが過剰に醸し出されます。
でも、実際、その形すら身につけていない人が多く、
内面が醸し出される以前のことなので、まるでサマにならないと。
これって、色々なことに通じると思います。
よく言われていることですが、現代人の手紙の下手さ。
ひと昔前の方々は手紙が非常に上手です。味わいがあります。
もちろん、歴史的に現代人だけが味わい不足なわけもなく、
かつての方々は、基本として格調の高い形を仕込まれていて、
その形を血肉化した上で、崩したりずらしたりしているので、
結果的に、味わいが演出されていると。
「型破り」をするには「型」を知らなきゃできませんよね。
好き勝手やって自由を得られるなら、クリエイターは誰も苦労しないです。
またこれ、接遇にも通じると思います。
二言目には、自分的には〜と思い浮かべてしまう人、
たまに見かけますが、ほんとに要注意ですよ。
接遇は、自分的な何かを相手に伝える前段階のことです。
よく私が言うのは、
「性格も過去も変えなくていいから、形を変えてください」です。
実際、形すら変えられない人に、中身は変えられないと思います。
誰でも出来る形で相手への敬意を表せるなら、
また、そのことで言語を使わずに自分自身を表せるなら、
こんなに便利で融通のきく仕草、身につけておいたほうがお得。
相手に受け入れてもらえなければ、ケアも何もありませんから。
織田信長や前田慶次のエピソードでも、普段はやんちゃしていても、
決めるべき場面でしっかり礼節を尽くす個性であったことが、
非常に魅力的で美しいものとして描かれています。
おそらく誰もの心象風景として、
汚せない縫い目なんじゃないでしょうか。