前回の「はじめてのACP」を書いている時に、
書き漏らしたまま不安だったことがありまして…
弊社取締役と話している時に、
「そういえば、どういう話だっけ?ほら、あの誤訳の」と聞かれまして…
重なる時は、重なるもんですね。
というか、不安はその都度向き合っておかないと、
いきなり、ボンジュールしてくるもんですね。
というわけで、書いておきます。
日にちも置かずに更新うっとうしいな、、、
と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ご容赦。
ずばり、翻訳について。
英語の「right」の和訳は何でしょうか。
「正しさ」「右」の他に、もうひとつ有名なのがありますね。
そうです。「権利」です。
今となっては、それなりに知られたエピソードでもあるので
ご存知の方も多いかもしれませんが、このrightの和訳をめぐり、
相当な危機感を持っていた人物が、現在の一万円札に刷られています。
ちなみに「権利」と訳したのは当時の秀才官僚なのですが、
(誤解のないように添えておくと、この方も相当に優秀な方だったようです)
rightにもっと深い意味を捉えていた福沢諭吉は、もし権利と訳するならば、
必ず未来にまで禍根を残すとまで言い切っていました。
では、福沢はどう訳したか。
彼は、「権理」「通義」と訳しました。
どうでしょう。
だいぶニュアンスが変わりませんか?
「権利」という語に対しておそらく多くの方が、
なんとなく与えられるプレゼント的なイメージを持っているはずです。
ところが、福沢が訳した「権理」や「通義」という語からは、
「理」や「義」を目指しつつ行使する自己実現、的な意味が感じられませんか?
この訳のニュアンスに則って考えてみると、
「だって、おれの権利なんだから好きにしていいじゃん」
という開き直り自体、そもそもありえないことがよくわかると思います。
もう一歩踏み込んでみましょう。
では、巷のオトナさまが知った風に言うところの
「権利は義務を負う」って、どういう意味なんでしょうか。
おかしくないですか? だって、そもそも権利=通義なんですよ?
ならば、両語ともつねに「義」や「理」を目指しているのだから、
対象語ではなく、同じ意味合いの違う側面でしかない。
そうなんです。
この誤訳がもたらした歪みは、福沢の予見した通り、
残念ながら、非常に根深い禍根を残していると思います。
さて、ACPです。
前回ちらっと書いた「どう翻訳するか」がいかに重要か、
少しでも気にしてもらえたらうれしいです。誰もが当事者なのですから。
福沢諭吉に会ったことあります? おれはないです。
でも、こんなに、後々まで、影響が出ることなのです。