暑くなると思い出すこと

先日、大島康徳さんが亡くなられました。
自分自身ががんに罹患してからというもの、がんについて発信されている色々なブログやSNSアカウントを覗かせていただくようになり、大島康徳さんのブログは毎日読んでいました。
ブログの内容についてここでのご紹介は控えますが、ご家族様が「なんて強くて優しくてなんて見事な旅立ち方なのでしょう」と語られていました。その重い言葉を目にして、私にも、思い出すひとりの利用者様がいます。※以下の文章は個人情報保護に抵触しないよう改変しています。

その利用者様は、かなり若い方でした。仮に、Aさんとします。
Aさんは海外で仕事をされていたところ、末期がんの診断を受け「最期は母国で」と帰国し入院されていた方です。入院先の病院から弊ステーションに直接ご依頼があり、「もう一度自宅へ帰りたいと仰っているのでお願いできないか」とのことでした。実はAさん、すでにご自分でホスピスを予約されていました。その上で「あともう一度、自宅で過ごしたい」と決心されたのです。こういうご依頼に俄然スイッチが入る管理者Sが、退院当日から担当させていただきました。が、早くも翌日には病状が一気に悪化してしまったのです。オンコールにて緊急訪問し、ご本人・ご家族とご相談の上、救急搬送にて再入院、訪問終了となりました。

その後しばらくたった日、とても暑かった日でした。
ステーションに「お世話になったAの母です、今からご挨拶にうかがいたいのですが…」とお電話がありました。弊ステーションはややわかりにくい立地なので、外に出てみると、少し離れたところで心許なさそうに自転車を押している女性が目に入りました。近づいてお声がけしたら、やはりそのお母様で、ご挨拶もそこそこにおっしゃった言葉が「よかった…あの子との約束が果たせました」でした。

ステーションに入っていただきお話を伺うと、あの後、Aさんはご自分で決めていたとおりホスピスでご逝去されたこと、自宅に帰ってはみたものの痛みが酷くご自身で再入院を決断されたこと、たった一日だったけれど自宅に帰れたことに満足されていたこと、そして「わたしに何かあったときには、必ずSさんに御礼を言いに行ってね」とおっしゃっていたことを知りました。ちょうどSは訪問のため外に出ていた時だったので、その場でSに電話をかけて電話口にてお母様とお話させていただきました。

その後も、たくさんAさんの思い出話をしてくださいました。本当に自慢のお子さんだったんだなというのがよくわかりました。涙もふかずにお話しされていたのですが、なんというか、うまく言えないんですが、底知れない寂しさと哀しさはもちろんあるけれど、お話の口調が、どこか誇らしく感じられたんです。私も、その場にいた役員も、もらい泣き噴水状態でした。

でも、お話してくださったことと同じくらい鮮明に、私の脳裏には「心許なさそうに自転車を押している女性」の姿が焼きついています。お子さんとの約束を果たそうと、炎天下の中、慣れない場所まで自転車をこいでいらっしゃり、汗を拭いながらステーションを探されている姿は、とても心許なさそうで、そして、とても美しい姿でした。

現場時代も経営者となってからも、本当の尊厳について、いつも利用者様に教えていただいています。

The Times They Are a-Changin’

野球はあんまり知らないのですが、ボクシングは好きで、井上尚弥がどれだけ凄いかは多少わかります。どれだけ凄いかというと、「どれだけ」を語りようがないくらい凄いです(ちなみに彼は数値化したパンチ力が図抜けているボクサーじゃありません)。大谷翔平にしても、野球をよく知らない人にも夢を感じさせるところが凄さですよね。

かつて映画俳優は、テレビが浸透してきた頃、テレビに出ない風潮があったそうです。おそらく格が下がると感じたんだと思います。なんせテレビは無料メディアですし、制作におけるノウハウや予算にしても、おそらく映画で培ってきたものに対する矜持があったでしょう。いままさに同じこと、テレビからYoutubeへ移行した感じがあります。

先日亡くなった田村正和さんがインタビューで「自分はそもそも映画出身なのだけれど、デビューして間もなく映画作品でつまづいてしまい、映画の仕事に抵抗ができてしまった」といった内容の発言をしていました。でも、そこからテレビ作品に入り込んで、あの唯一無二のキャラクターに結実するのですから、何がきっかけになるかわかりません。

わたしの曽祖母の時代、高齢者の医療費は無料でした。制度は一気に変えると歪みも反発も出ますから、その時代から少しずつ変わってきています。精神疾患にしても、当時は収容し隔離するのが当たり前でした。なんで当たり前だったのかわかりません。様々な要因はあるでしょうが、おそらく、器用な労働者あるいは割りのいい納税者以外は、ひとまず脇に置いておいた方が都合がいいと考えたのでしょう。それがいまや「在宅へ」が国策になっています。

わたしが小中学生の頃、「ホモ」という言葉を耳にした時、かなりの蔑視を含んだ意味合いで聞いた記憶があります。大学の時ですら、似たようなことを、しょうもない場で経験しました。たまたまわたしは10代の頃に友人から「自分はゲイなんだ」と伝えられたことがあり、何人かの地元の友人を集めた場で、その友人が飲めない酒を飲みながら打ち明けてくれた、その勇気にとても感謝しています。なぜだか、なんというか、自分の中のよくわからない部分がとても楽になった感触をおぼえています。

わたしは、個人の苦しみや悩みから生まれてくるすべての変化に賛同します。それは、自分が囚われている思い込みを気づかせてくれ、砕いてくれるものだからです。誰かが闘い生み出した変化によってわたしは自由にしてもらっていること、それを絶対に忘れてはいけないと思います。それゆえ、その誰かを手離さないために、わたしはわたしなりの闘いをしてゆこうと思っています。

今回のタイトルはBob Dylanの名曲から引用しました。
時代は変わる。たしかに。

大人の階段昇る

タイトルでピンときた人はきっと同年代。
ええ、あの名曲からです。

自分が大人の階段を一歩昇った時のこと、おぼえてます?
おれははっきりおぼえてますよ。

ちょうど、このくらいの時期、
大人は長袖で子供は半袖、そんな日でした。

小学二年生だったと思います。
当時の男子のご多分にもれず、機動戦士ガンダムにハマっていたおれは、どうしてもガチャガチャをやりたくて、母親にねだった小銭一枚(たしか50円だった)を握りしめ、近所のスーパーに走ったのでした。

好きだったのはシャア専用ゲルググ、シャアゲルです。
ゲルググ、かっこいいっすよね。

※余談ですが、その後自分でカフェバーをやっていた頃、常連客でガンプラ選手権を開催して優勝したことがあります。つくったのは戦闘後のシャアザク。肩まわりをライターで炙り、ヤスリとシルバー塗料で傷跡をつくりました。

小学校二年生のおれは、
息を切らせてスーパーに辿り着くと、
たった一枚しかない小銭を投入し、
しんと澄み渡った青い空をみつめ、
これまでの行いすべてを懺悔しながら、
全祈りを捧げてハンドルを回しました。

ころころっと出てきました。

ギャンが。

こいつです。

なんと劇場版では割愛されちゃったやつです。

そのまま近所の公園でひとり何時間を過ごしたか忘れました。
ひとしきり自分の内面を整えた後、自宅に帰り、母親へむけた第一声が、

「これが欲しかったんだよね」

多分これ、自分の人生ではじめて自覚的についた嘘です。
自覚的に、自分が大人になるべきだと判断した瞬間です。
なんとなく、責任取らなきゃいけないって思ったんでしょうね。

でも、不思議なんですよ。
嘘をホントにできちゃうこともあるんです。

だって、いまはおれ、結構ギャンが好きですからね。

みなさんは、どんな嘘をおぼえてますか?

思ひ出す事など

19~20歳の頃、中野の裏路地でいわゆる黒服をやっていたことがある。
だいたい夕方17時くらいから勤務して、4時くらいに閉めをやって、その後スタッフと女の子たちで飲みに行く。まあ、どこも同じだろうけどそんな感じ。

ある日、翌日にスタジオ予約してたこともあり、閉店後、みんなと別れてひとりで帰った。腹が減ったので、ラーメン屋に入った。すると、カウンターの端に女の子がひとり飲んでいた。

夜の仕事風な服装はしてるけど、どう見ても着慣れていない、着られている感じで、高校卒業したてくらいの年齢かな、まだつい最近上京したばっかりとか、どこかから逃げてきてとりあえず職にありついたとか、そんな印象を受けた。で、その女の子、店員のおっさんに話しかけられると、控えめな笑顔で生真面目に返すんだけど、つくった表情が続かない、すぐ素に戻ってしまう。素は、思い詰めた表情だった。

って、そんな凝視していたわけでもなくて、一瞬目に入ってしまったその「控えめな笑顔」のぎこちなさが鮮烈でなぜか忘れられないんだよね。

でも、すごく不思議だ。顔もよくおぼえていないし、服の色も形もおぼえていない。だけど、ぎこちない笑顔と思い詰めた表情は、いつでも脳内で再生できるくらいおぼえている。いったい、ひとは何をおぼえるのだろう。ひとは何を思い出すのだろう。

あの女の子、元気かな。幸せだといいな。

明日から五年目

何かの節目に読み返している文章がいくつかありますが、
今日ご紹介するのもその中のひとつです。

明日からいおりが五年目を迎えるにあたり、
ふと、読んでおきたくなったのでご紹介します。
旧仮名づかいも含まれていますが、意味は通じると思います。

みなさんよくご存知の作家が教え子に向けて書いた手紙です。

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八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。
あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。
私もお蔭で大分癒っては居りますが、
どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、
咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、
或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、
仲々もう全い健康は得られさうもありません。
けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら
七八時間は何かしてゐられるやうなりました。

あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが
それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。
しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。
私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、
「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。
僅かばかりの才能とか、器量とか、
身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、
じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、
いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、
空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、
幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、
たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、
しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。

風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、
自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことは
できないものから見れば神の業にも均しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、
本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。
上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、
楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。
いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。
それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。
また書きます。

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宮沢賢治が死の十日前に書いた手紙です。
五年目もどうぞよろしくお願いいたします。

『看護のためのポジティブ心理学』

とてもありがたいことに標題の一冊(R3.2.1初版発行)をご恵送いただきました。
(なんか最近いただいてばかりで恐縮しております。。。)

まずこのタイトル、どう思われますか?
ポジティブと書かれていたりすると、軽くスルーする方も多いのかなと。

私は、逆に「攻めてる」と感じました。

おそらくそうなんじゃないかと思いながら読み進めましたが、やはりポジティブシンキングを推奨するような内容ではなく、ネガポジに振れず、「肯定」し「受容」していく、いわばケアマインドの基本のキについて、ときほぐされた文体で書かれています。

個別の章でキーワードになっている言葉も一見するとイージーリスニング的なんですが、もちろん聴き心地がよいことを目的にしているわけではなく、もう一度中身の音階をほぐしてみよう、共有してみよう、栄養にしてみよう、そんな趣旨が感じられました。

ケア従事者が、自分の資質に迷ってしまった時や初心を思い出したくなった時に、自分で形をいじれるようなやわらかい鏡になってくれる、そんな一冊かもしれません。

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わたしたちとグリーフケア(2021/2/21開催)

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、弊社では「ちいけあ」というプロジェクトを展開しておりまして、「地域で、地域と、地域のケアを、ひとりひとりが主体となって育んでゆくためのきっかけを創り出す」ことを活動理念および目標としています。

おかげさまで、このたび第三回目を開催することができました。

コロナ禍ということもありオンライン開催となりましたが、ありがたいことに定員の20席がすぐに完売しまして、テーマと講師への関心の高さをあらためて感じ入りました。

この世情ですし、またテーマが「グリーフケア」というシリアスな側面があることをふまえまして、今回はいつものセミナー&ワークショップという形ではなく、もっとリラックスして参加できる「茶房」として開催させていただきました。それにともない講師というより「案内人」として、入江杏さんと神谷祐紀子さんにガイドをしていただきつつ、前半は杏さんからプレゼンテーション、後半は神谷さんから「グリーフケアの実践」についてのレクチャー、その後、参加者の皆様からお話をうかがいました。

素直に、主催者の想像をはるかに超える会になりました。

やっぱり参加者の方々のお力ってすごいです。時間がかぎられていたこともあり参加者全員からのお話は聞けませんでしたが、叶うなら、ずっと皆様のお話を聞いていたいなと感じていました。苦しくて、切なくて、重く深いお話が多いのに、不思議と、どこか澄んだような、透き通ったような、「許されている空間」と言ったら言い過ぎでしょうか、そんな感触に包まれていました。

たまたま訪問看護師さんからのお話が多かったのですが、あらためて、心からの尊敬をお伝えしたいです。テーマをかんがみまして今回は「他の方の発言内容を明かさない」ルールなので、お話いただいた内容の詳細は伏せます。ほんとに皆さん素晴らしいスピリットで、こんなにもプロなのか、ここまでプロなのか、と感動させられました。そんな皆様とのご縁に恥じないよう、いおりもがんばってまいります。

後で数名の方からメッセージをいただいて知りました。途中、感情がたかぶり、涙をこらえきれずに画面オフにされていた方が何人かいらっしゃったようです。主催者も、同じ心持ちでした。

ご参加くださり、まことにありがとうございました。
このご縁を大切にさせてください。

是非、また、お会いしましょう。

※写真は、参加者との対話に向き合う杏さんと告知ポスターです。

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『家でのこと』

月刊誌『訪問看護と介護』で連載されていたまんが『家でのこと』が単行本になったそうです。

実はこの企画、立ち上がった段階くらいで医学書院の編集者さんにご相談をいただいたりしていて、それをきっかけに知り合った方々にはいまでもお世話になっていることもあり、個人的にも不思議なご縁を感じる一冊です。ステーションで購入するつもりでいたのですが、ありがたいことにご恵投いただきまして(R丸さん、ありがとうございます!)届いた当日に一気に読んでしまいました。

ひとこと。
おすすめです。

実際のエピソードをもとにしているそうですが、それぞれのエピソードがエピソードとして完結されず、絵のトーンと相まって「迷うこと」「答えがないこと」が心象そのままに滲んでいて、ダイレクトに感覚に入ってきます。いま訪問看護の現場にいる方々の背中を撫でてくれる、これから訪問看護をやってみたい方々の手を引いてくれる、そんな一冊になるのではないでしょうか。

「介入ってなんだろう?」
「他人と関わるってなんだろう?」
「人が実在するってどういうことだろう?」

利用者様のお宅では想像もつかない様々なことが起こります。
利用者様のお宅で起きていることは、街で起きていることです。
自分は街に住んでいますし、暮らしていますし、参加しています。

利用者様宅からの帰り道、いつもわからないことばかり考えていた自分の現場時代を思い出しながら読みました。いっけん矛盾する「揺らぐしかないから揺るぎないもの」がたしかにあることを感じながら冬の青梅街道を自転車で走っていた時間を、まるでついさっきのことのように思い出しながら読みました。

いまも相変わらずわからないことばかり考えています。

ある陽射しについて

今日2/7は久しぶりに陽射しらしい陽射しを浴びた気がする。コロナ禍で外出を控えていたのもあるが、ようやく冬の裂け目から春が射し込んでくるのを感じられる気候だった。近場の公園のベンチに腰掛けていると、陽射しをうけている背中が少し暑くすら感じた。

とある方のツイートで、かなり前の記憶がふとしたきっかけから鮮明に想起されてくるその不思議さ、を目にして共感できるところがあったので、書いてみようと思った。

私は北関東にある旧赤線地帯で祖父母が営む酒屋で生まれた。生まれてしばらくして引っ越しているのだが、よく祖父母宅に預けられていたこともあって、とても印象深い母屋だ。自分自身、その祖父母にとても影響を受けている気がするし、まわりの人からも風情が祖父に似ていると幾度か言われてきた。あとから知ったのだが、長男は母父に似る説があるらしい。

祖父は、四人兄弟の末っ子だった。上の兄二人は東京帝国大学を出たものの戦死。三番目の頭がキレ過ぎるためにまわりが扱いに困っていた兄は、これまた東京帝国大学を出たあと一応酒屋を継ぎつつ風来坊のように暮らしていた。そして末っ子の祖父は芸事に秀でていたらしく、早くから着物のデザインと絵付けで仕事を得ていた。名前が知られてくると地方まで教えに行くことも増えてきて、より染料について学ぶため早稲田大学に在籍して研究もしていた。

ある日、祖父の元に三番目の兄の訃報が届く。どうやら、伊豆で芸者と心中したらしい。

祖父は、滞在していた東京から兄の遺体を引き取りに行き、そのまま大学から去り、酒屋を継いだ。それから10数年後に母が生まれ、さらに20年以上後に私が生まれる。

かたや祖母は、時代が違えばカルチャーセンターみたいのをつくっていたような人だった。ありとあらゆる免状を持っていて、酒屋の奥の部屋でたくさんのお弟子さんに稽古をつけていた。私は幼稚園に入る前から、詩吟や舞踊の稽古にギャラリーとして参加させてもらえて、その時間がとても好きだった。もちろん孫だからといって特別扱いなどなく、稽古を見学する条件は、始まりと終わりの挨拶をお弟子さんと同様にすることだった。着物の匂いや、お弟子さんたちが出す声や空気感など、いまだに感触としておぼえている。

酒屋の店番をしながら、近場の料亭からヘルプ要請が入れば夜中であろうと出かけて行って、仲居さんとして働き、料理を手伝い、おまけにお座敷で踊と唄を披露してチップをもらい、ついでに酒類の注文もとってくる。翌日はまた店番と稽古。時間が空けば東京に飛んで行って銀座を闊歩する。なのに、色々思い返してみても彼女の疲れた表情を見た記憶がない。商いをすること、生きること、そういう次元での覚悟がまるで現代人と違う気がする。千代の富士の大ファンで、ドリフを見て涙流して爆笑する、そういう人だった。何を隠そう、ファーストキスを奪われたのも彼女だ。抵抗する間もない勢いだった。

祖父は寡黙な人だった。叱られた記憶はない。が、どこかしら遠い人だ。水の中で会っていたような感じというか。実は三十代にうつ病で5年間寝たきりだったことや、酒屋を継いだきっかけなどを含め、私が祖父の過去を知ったのは祖父が亡くなった後で、こどもの私にとっては「なんか、謎を知ってそうな人」だった。

私は図工が得意だったので、油粘土でつくった造形などを見せたことがあり、それをほめてくれるのがうれしかった。ほめてくれた上で「ここをな、ちょっとこうして」とほんの二、三手くわえるだけで見違えるものになった時、ひとの手仕事の凄さを知った。ある程度の年齢の人なら知っているだろうが、当時の新聞広告は片面だけで裏面はメモに使えた。祖父は広告の裏面にふと思い返したようにささっとスケッチすることがあったのだが、モチーフは高松塚古墳壁画とかそういうレベルで、まあまあうまくいくと水彩で色付けをしていた。小学校の社会の授業で高松塚古墳壁画が出てきた時、「これ、じいちゃん家にあるよ」と発言したことがある。

それからしばらくたった頃、生気が落ち込んできた祖父を元気付けようと、私の親が画材のセットを贈ったことがある。が、やはり描きはしなかった。また私が、祖父がかつて早稲田に在籍し不本意に除籍となったことを知らずに早稲田に入ることを伝えた時も「そうか、よかったなあ」と穏やかに笑っていた。祖父の謎を心地よく感じていた自分が嫌になる。

こういう感情が湧き上がってきた時、自分は感情の整理をするのがつくづく苦手な人間だと思う。きっと整理してはいけない、まとめると霧消してしまう感情なんだとも思う。まとめる資格がない、とも。

ところで、祖父の酒屋に行くと毎回うれしかったことのひとつが、店先の自販機で売っていた炭酸飲料を飲ませてもらえたことだ。こどもなりに工夫して、炭酸飲料と果汁ジュースをまぜると美味しいことに気づいていた。

酒屋の二階には昔ながらの窓があって、こどもの私は、そこにひとり腰掛けて路地を覗きこんだり空想に耽ったりするのが好きだった。祖父は帳簿をつける時、いつもその部屋で腰を落ち着けて作業するのだった。それを邪魔しないようにじっと見ているのも好きだった。階下の奥の部屋からは、祖母が稽古をつける音が聞こえる。目の前では、祖父が帳簿とにらめっこしながらそろばんをはじく音が聞こえる。

二階の窓に腰掛けている私は、オレンジジュースをキリンレモンで割って飲んでいた。きっとあの日も、背中にあたっている陽射しを少し暑く感じていた。

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