思ひ出す事など

19~20歳の頃、中野の裏路地でいわゆる黒服をやっていたことがある。
だいたい夕方17時くらいから勤務して、4時くらいに閉めをやって、その後スタッフと女の子たちで飲みに行く。まあ、どこも同じだろうけどそんな感じ。

ある日、翌日にスタジオ予約してたこともあり、閉店後、みんなと別れてひとりで帰った。腹が減ったので、ラーメン屋に入った。すると、カウンターの端に女の子がひとり飲んでいた。

夜の仕事風な服装はしてるけど、どう見ても着慣れていない、着られている感じで、高校卒業したてくらいの年齢かな、まだつい最近上京したばっかりとか、どこかから逃げてきてとりあえず職にありついたとか、そんな印象を受けた。で、その女の子、店員のおっさんに話しかけられると、控えめな笑顔で生真面目に返すんだけど、つくった表情が続かない、すぐ素に戻ってしまう。素は、思い詰めた表情だった。

って、そんな凝視していたわけでもなくて、一瞬目に入ってしまったその「控えめな笑顔」のぎこちなさが鮮烈でなぜか忘れられないんだよね。

でも、すごく不思議だ。顔もよくおぼえていないし、服の色も形もおぼえていない。だけど、ぎこちない笑顔と思い詰めた表情は、いつでも脳内で再生できるくらいおぼえている。いったい、ひとは何をおぼえるのだろう。ひとは何を思い出すのだろう。

あの女の子、元気かな。幸せだといいな。

明日から五年目

何かの節目に読み返している文章がいくつかありますが、
今日ご紹介するのもその中のひとつです。

明日からいおりが五年目を迎えるにあたり、
ふと、読んでおきたくなったのでご紹介します。
旧仮名づかいも含まれていますが、意味は通じると思います。

みなさんよくご存知の作家が教え子に向けて書いた手紙です。

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八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。
あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。
私もお蔭で大分癒っては居りますが、
どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、
咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、
或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、
仲々もう全い健康は得られさうもありません。
けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら
七八時間は何かしてゐられるやうなりました。

あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんが
それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。
しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。
私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、
「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。
僅かばかりの才能とか、器量とか、
身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、
じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、
いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、
空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、
幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、
たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。
あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、
しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。

風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間でも話ができるとか、
自分の兄弟のために何円かを手伝へるとかいふやうなことは
できないものから見れば神の業にも均しいものです。
そんなことはもう人間の当然の権利だなどといふやうな考では、
本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。どうか今のご生活を大切にお護り下さい。
上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、
楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。
いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。
それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。
また書きます。

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宮沢賢治が死の十日前に書いた手紙です。
五年目もどうぞよろしくお願いいたします。

『看護のためのポジティブ心理学』

とてもありがたいことに標題の一冊(R3.2.1初版発行)をご恵送いただきました。
(なんか最近いただいてばかりで恐縮しております。。。)

まずこのタイトル、どう思われますか?
ポジティブと書かれていたりすると、軽くスルーする方も多いのかなと。

私は、逆に「攻めてる」と感じました。

おそらくそうなんじゃないかと思いながら読み進めましたが、やはりポジティブシンキングを推奨するような内容ではなく、ネガポジに振れず、「肯定」し「受容」していく、いわばケアマインドの基本のキについて、ときほぐされた文体で書かれています。

個別の章でキーワードになっている言葉も一見するとイージーリスニング的なんですが、もちろん聴き心地がよいことを目的にしているわけではなく、もう一度中身の音階をほぐしてみよう、共有してみよう、栄養にしてみよう、そんな趣旨が感じられました。

ケア従事者が、自分の資質に迷ってしまった時や初心を思い出したくなった時に、自分で形をいじれるようなやわらかい鏡になってくれる、そんな一冊かもしれません。

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わたしたちとグリーフケア(2021/2/21開催)

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、弊社では「ちいけあ」というプロジェクトを展開しておりまして、「地域で、地域と、地域のケアを、ひとりひとりが主体となって育んでゆくためのきっかけを創り出す」ことを活動理念および目標としています。

おかげさまで、このたび第三回目を開催することができました。

コロナ禍ということもありオンライン開催となりましたが、ありがたいことに定員の20席がすぐに完売しまして、テーマと講師への関心の高さをあらためて感じ入りました。

この世情ですし、またテーマが「グリーフケア」というシリアスな側面があることをふまえまして、今回はいつものセミナー&ワークショップという形ではなく、もっとリラックスして参加できる「茶房」として開催させていただきました。それにともない講師というより「案内人」として、入江杏さんと神谷祐紀子さんにガイドをしていただきつつ、前半は杏さんからプレゼンテーション、後半は神谷さんから「グリーフケアの実践」についてのレクチャー、その後、参加者の皆様からお話をうかがいました。

素直に、主催者の想像をはるかに超える会になりました。

やっぱり参加者の方々のお力ってすごいです。時間がかぎられていたこともあり参加者全員からのお話は聞けませんでしたが、叶うなら、ずっと皆様のお話を聞いていたいなと感じていました。苦しくて、切なくて、重く深いお話が多いのに、不思議と、どこか澄んだような、透き通ったような、「許されている空間」と言ったら言い過ぎでしょうか、そんな感触に包まれていました。

たまたま訪問看護師さんからのお話が多かったのですが、あらためて、心からの尊敬をお伝えしたいです。テーマをかんがみまして今回は「他の方の発言内容を明かさない」ルールなので、お話いただいた内容の詳細は伏せます。ほんとに皆さん素晴らしいスピリットで、こんなにもプロなのか、ここまでプロなのか、と感動させられました。そんな皆様とのご縁に恥じないよう、いおりもがんばってまいります。

後で数名の方からメッセージをいただいて知りました。途中、感情がたかぶり、涙をこらえきれずに画面オフにされていた方が何人かいらっしゃったようです。主催者も、同じ心持ちでした。

ご参加くださり、まことにありがとうございました。
このご縁を大切にさせてください。

是非、また、お会いしましょう。

※写真は、参加者との対話に向き合う杏さんと告知ポスターです。

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『家でのこと』

月刊誌『訪問看護と介護』で連載されていたまんが『家でのこと』が単行本になったそうです。

実はこの企画、立ち上がった段階くらいで医学書院の編集者さんにご相談をいただいたりしていて、それをきっかけに知り合った方々にはいまでもお世話になっていることもあり、個人的にも不思議なご縁を感じる一冊です。ステーションで購入するつもりでいたのですが、ありがたいことにご恵投いただきまして(R丸さん、ありがとうございます!)届いた当日に一気に読んでしまいました。

ひとこと。
おすすめです。

実際のエピソードをもとにしているそうですが、それぞれのエピソードがエピソードとして完結されず、絵のトーンと相まって「迷うこと」「答えがないこと」が心象そのままに滲んでいて、ダイレクトに感覚に入ってきます。いま訪問看護の現場にいる方々の背中を撫でてくれる、これから訪問看護をやってみたい方々の手を引いてくれる、そんな一冊になるのではないでしょうか。

「介入ってなんだろう?」
「他人と関わるってなんだろう?」
「人が実在するってどういうことだろう?」

利用者様のお宅では想像もつかない様々なことが起こります。
利用者様のお宅で起きていることは、街で起きていることです。
自分は街に住んでいますし、暮らしていますし、参加しています。

利用者様宅からの帰り道、いつもわからないことばかり考えていた自分の現場時代を思い出しながら読みました。いっけん矛盾する「揺らぐしかないから揺るぎないもの」がたしかにあることを感じながら冬の青梅街道を自転車で走っていた時間を、まるでついさっきのことのように思い出しながら読みました。

いまも相変わらずわからないことばかり考えています。

ある陽射しについて

今日2/7は久しぶりに陽射しらしい陽射しを浴びた気がする。コロナ禍で外出を控えていたのもあるが、ようやく冬の裂け目から春が射し込んでくるのを感じられる気候だった。近場の公園のベンチに腰掛けていると、陽射しをうけている背中が少し暑くすら感じた。

とある方のツイートで、かなり前の記憶がふとしたきっかけから鮮明に想起されてくるその不思議さ、を目にして共感できるところがあったので、書いてみようと思った。

私は北関東にある旧赤線地帯で祖父母が営む酒屋で生まれた。生まれてしばらくして引っ越しているのだが、よく祖父母宅に預けられていたこともあって、とても印象深い母屋だ。自分自身、その祖父母にとても影響を受けている気がするし、まわりの人からも風情が祖父に似ていると幾度か言われてきた。あとから知ったのだが、長男は母父に似る説があるらしい。

祖父は、四人兄弟の末っ子だった。上の兄二人は東京帝国大学を出たものの戦死。三番目の頭がキレ過ぎるためにまわりが扱いに困っていた兄は、これまた東京帝国大学を出たあと一応酒屋を継ぎつつ風来坊のように暮らしていた。そして末っ子の祖父は芸事に秀でていたらしく、早くから着物のデザインと絵付けで仕事を得ていた。名前が知られてくると地方まで教えに行くことも増えてきて、より染料について学ぶため早稲田大学に在籍して研究もしていた。

ある日、祖父の元に三番目の兄の訃報が届く。どうやら、伊豆で芸者と心中したらしい。

祖父は、滞在していた東京から兄の遺体を引き取りに行き、そのまま大学から去り、酒屋を継いだ。それから10数年後に母が生まれ、さらに20年以上後に私が生まれる。

かたや祖母は、時代が違えばカルチャーセンターみたいのをつくっていたような人だった。ありとあらゆる免状を持っていて、酒屋の奥の部屋でたくさんのお弟子さんに稽古をつけていた。私は幼稚園に入る前から、詩吟や舞踊の稽古にギャラリーとして参加させてもらえて、その時間がとても好きだった。もちろん孫だからといって特別扱いなどなく、稽古を見学する条件は、始まりと終わりの挨拶をお弟子さんと同様にすることだった。着物の匂いや、お弟子さんたちが出す声や空気感など、いまだに感触としておぼえている。

酒屋の店番をしながら、近場の料亭からヘルプ要請が入れば夜中であろうと出かけて行って、仲居さんとして働き、料理を手伝い、おまけにお座敷で踊と唄を披露してチップをもらい、ついでに酒類の注文もとってくる。翌日はまた店番と稽古。時間が空けば東京に飛んで行って銀座を闊歩する。なのに、色々思い返してみても彼女の疲れた表情を見た記憶がない。商いをすること、生きること、そういう次元での覚悟がまるで現代人と違う気がする。千代の富士の大ファンで、ドリフを見て涙流して爆笑する、そういう人だった。何を隠そう、ファーストキスを奪われたのも彼女だ。抵抗する間もない勢いだった。

祖父は寡黙な人だった。叱られた記憶はない。が、どこかしら遠い人だ。水の中で会っていたような感じというか。実は三十代にうつ病で5年間寝たきりだったことや、酒屋を継いだきっかけなどを含め、私が祖父の過去を知ったのは祖父が亡くなった後で、こどもの私にとっては「なんか、謎を知ってそうな人」だった。

私は図工が得意だったので、油粘土でつくった造形などを見せたことがあり、それをほめてくれるのがうれしかった。ほめてくれた上で「ここをな、ちょっとこうして」とほんの二、三手くわえるだけで見違えるものになった時、ひとの手仕事の凄さを知った。ある程度の年齢の人なら知っているだろうが、当時の新聞広告は片面だけで裏面はメモに使えた。祖父は広告の裏面にふと思い返したようにささっとスケッチすることがあったのだが、モチーフは高松塚古墳壁画とかそういうレベルで、まあまあうまくいくと水彩で色付けをしていた。小学校の社会の授業で高松塚古墳壁画が出てきた時、「これ、じいちゃん家にあるよ」と発言したことがある。

それからしばらくたった頃、生気が落ち込んできた祖父を元気付けようと、私の親が画材のセットを贈ったことがある。が、やはり描きはしなかった。また私が、祖父がかつて早稲田に在籍し不本意に除籍となったことを知らずに早稲田に入ることを伝えた時も「そうか、よかったなあ」と穏やかに笑っていた。祖父の謎を心地よく感じていた自分が嫌になる。

こういう感情が湧き上がってきた時、自分は感情の整理をするのがつくづく苦手な人間だと思う。きっと整理してはいけない、まとめると霧消してしまう感情なんだとも思う。まとめる資格がない、とも。

ところで、祖父の酒屋に行くと毎回うれしかったことのひとつが、店先の自販機で売っていた炭酸飲料を飲ませてもらえたことだ。こどもなりに工夫して、炭酸飲料と果汁ジュースをまぜると美味しいことに気づいていた。

酒屋の二階には昔ながらの窓があって、こどもの私は、そこにひとり腰掛けて路地を覗きこんだり空想に耽ったりするのが好きだった。祖父は帳簿をつける時、いつもその部屋で腰を落ち着けて作業するのだった。それを邪魔しないようにじっと見ているのも好きだった。階下の奥の部屋からは、祖母が稽古をつける音が聞こえる。目の前では、祖父が帳簿とにらめっこしながらそろばんをはじく音が聞こえる。

二階の窓に腰掛けている私は、オレンジジュースをキリンレモンで割って飲んでいた。きっとあの日も、背中にあたっている陽射しを少し暑く感じていた。

モノよりヒト

今日はちょっと今までにはないテイストで「経営者として」書いてみたいと思います。
なんでこれを書こうと思ったかというと、コロナ禍で仕事を辞めることになってしまったり、あるいはこれを機にやりたかったことをやってみようとか、働き方を変えてみようとか、そういう方が次の選択をする時に少しでも手がかりになればいいなと思ったからです。

タイトルから誤解をさせてしまうかもしれませんが、モノよりヒトを大切にしようとか、そういう主旨では書いてはいないことをはじめにご了承ください。

私は、大学を卒業したあと、思うところあって就職活動をしませんでした。なので、バイトで食うしかなく、そこから始めて個人事業主になり、屋台やったりお店やったりして、いまは小さな会社を経営しています。
もちろん、実際の私自身はいち零細企業の経営者でしかなく、そんな知ったようなこと言うのは憚られるのですが、こういう胡散臭い生き方をしてきたおかげで、いろんな人と出会ってはきています。世界的な有名企業の幹部さん、都内の大地主さん、一級のクリエイター、才能あるあすなろさん、などなど。そういう人たちとの関わりから感じることと自分自身の実情や本心を含めて、タイトルの件についてお話ししたいと思います。

端的に結論から言います。
ほとんどの経営者や事業主は、モノを買うのではなくヒトを買います。
これ特に営業の機会がある人には知っておいてもらいたいことで、おそらく、その「ヒトを買う」決断のスピードは、営業をかけている人の想像のはるか上をいっている体感があります。そして優秀な経営者ほどそのスピードが速いと感じます。

なんでかっていうと、結構単純な背景によるものなんです。
多くの経営者には、たくさん営業の申し入れがあり、たくさんのケースをプレゼンされます。なので、商品やサービスは一長一短だということも知っています。相手が儲けようとしていることも知っていますし、儲けるにはエグ味が必要だということも知っています。そして、実際に経営している本人であるので、そもそも経営の打率なんてせいぜい1割程度でしかなく9割は失敗だということも今までの人生で嫌というほど味わってきています。つまり、商品やサービス自体は開発事情や新興企業の影響でころころ変わることも当たり前だし、そもそも「自分の会社を助けてくれる魔法の一手」なんてこの世にあるわけがないことを、もう駄々こねてバブバブした後にお祈り捧げちゃいたくなるくらい知ってるんですね。

判断と決断の違いとも言えるかもしれません。
判断を繰り返していられるのはある種の猶予がある局面で、つねに最終判断を迫られる経営者は決断を繰り返しているので、それゆえの嗅覚みたいなものが嫌でも染みついているんです(だからスゴイとかエライとかじゃないです)。

ということは、結局「こいつと付き合ってみたいな」と感じる相手からモノを買うことになります。それが正解だからじゃないんです。そういう選択をすれば、うまくいかなくても納得できる、自分で責任をとる気になれるからなんです。実際、弊社に営業にいらした方でパートナー感覚でお付き合いさせていただいている方とは、そういった理由でお付き合いを続けています。

これ、ビジネスサイドの話として書いてますが、所属先やチームメイトに対してもそういう感覚で選択していくと、自分自身で「責任をとる」「参加する」意識が持ちやすくなり、精神的に健康でいられるはずです。実際私は、弊社の取締役と管理者に対してそういう感覚を持っています。この人とがんばって失敗したらしゃあないや、またやり直せばいいや、という精神面でのセーフティーネットみたいなものですね。

いま物心ともに非常に苦しく厳しい局面にいらっしゃる方が多いはずです。私で何かできることなどまるで思いあたらないのが情けないところですが、今までの日常と常識が崩れていくのは避けられないと思います。次の働き方や生き方を悩み考えている方へのエールをこめて、「経営者として」の現場から書かせていただきました。

三が日に添えて

新年なので、新しいお話、いまのお話がいいかなと思います。
とある呑兵衛さん、Aさんのお話にしましょう。

Aさんとはじめて会ったのは、2004年頃です。
当時新宿の外れで小さな飲み屋をやっていたのですが、そこにふらりと地元住まいのAさんがお客さんとしてやってきたのでした。その時のAさんの歳は、「おれ、尾崎豊と同い年」と言っていたので、たしか38か9くらいだったと思います。

常連客で成り立っているような小さな店で、ミュージシャン、デザイナー、プログラマーなどの個人事業主、クリエイターさんやその卵さんが多い店でした。ひとクセもふたクセもある連中が多い中で、一見するとどうも雰囲気的には合わないAさんは、どういうわけだか居心地よかったらしく、すぐに常連さんになってくれました。
話してみると、実はITエンジニアで(まるで見えない)、年齢の割に老けていて、ひとり者で実家暮らし、女の子に貢いで裏切られたことありまくり、四十路前ですでにいっぱしの呑兵衛オーラを身にまとっている、まあその時点で、ちょっと只者じゃあないですね。つうかキャラ立ち過ぎです。

とはいえ、さすがマジもんの呑兵衛なので、もちろんタチ悪いこと多々です。
常連客の作品に酔った勢いでケチつけて返り討ちにあったり、常連客の女の子が連れてきた彼氏と喧嘩になったり、同僚の後輩たちを連れ回してわしゃわしゃ(あり過ぎてめんどいので以下略

店主だったおれは、まあその都度毎回付き合うことになるわけですが、最長で開店18時〜(閉店3時を通り過ぎ)〜9時まで一緒に飲んだことあります。Aさんは途中カウンターに突っ伏して寝てる時間もありましたが、他の客の出入りをすべて過ぎて、お外はもう明るい時間。明るいどころか、夜中の3時に帰った客が翌朝出勤するのを見送り終えた時間です。

もうね、そこまで一緒にいると、さすがに話すこともなくなってきて、「あのさ、美味しいライムジュース知ってる?」とか、まるで興味ないことまで喋らなきゃならない会話のプラックホール状態になるわけです。間違いなくAさんは、カウンターからライムジュースの瓶が目に入ったので、間をつなぐためにそう発しただけです。

つうか、そろそろAと呼び捨てましょう。

そういえば、Aおすすめの店に連れて行ってもらったこともたくさんありました。超絶嗅覚の鋭い呑兵衛さんだったので、これがまた、名が知られていないのにめちゃ美味い店ばかりで、それはもうさすがでしたね。呑兵衛マナーとして「好きなもの注文していいから、残すな」これは毎度言われました。他には、ピクニック代わりに競馬場行ったり、客仲間のコンサートに日比谷野音に行ったりもしました。「いつもおれが奢ってやってるやつが野音のステージで歌っている」ことがやけに誇らしげでした。

ある年明けくらいから、あんまり来なくなって、久々に顔出してくれた時に「大丈夫?」と聞いたら、「いやあ、なんか最近もどしちゃうことが多くてさ、洗面器2杯とか」と言っていて、まあ年末年始の飲み過ぎだろうと思っていたんです。

そのままたまにしか来ない日々が続いて、春の朝に、Aは突然亡くなりました。享年42。

朝ご家族が起こしにいったらすでに亡くなっていたそうです。
連絡する相手を調べようとご家族が携帯を見てみたら、よく知らない相手と大量に、しかもやけに馴れ馴れしくメールしていることに弟さんが勘付いて、店のアドレスに連絡をくれたのです。

よくよく聞いてみたら、住んでいた実家から徒歩圏内なのに、店のことをご家族は一切知らなかった。
しかも、Aは持病を抱えていて、飲み続けていたら命がないのは本人も知っていた。

通夜に、よく知らない連中(アメリカ人やオーストリア人も含む)がわさわさ押しかけたので、ご家族はだいぶ混乱されていました。Aとまるで違ってとても真面目そうな弟さんからは「兄にこんな交友関係があるなんて、まったく知りませんでした。兄の自分だけの居場所だったんですね…。ありがとうございます」と言われました。というか、その時に「はじめまして」とご挨拶しました。

その日、常連客がそれぞれひとり一輪の花を持ち寄り、いつもAが座っていたカウンターの席に飾って、みんなでけちょんけちょんに言いながら朝まで飲みました。

またよりによって、「ほら、おれみてえなボンクラ抱えた親父のためによぅ」と自分で自腹を切ってこしらえた新品の墓に自分が一番先に滑り込むという離れ業をなしとげて、ハイパー級のあほですよね。

気が弱くて、自信がなくて、甘ったれで、自分自身であることを嫌悪していたA。
でも、おれもそうですよ。でも、みんなそうじゃないですか?

医療介護で最近よく言われる「その人らしく」
きっと素敵なことなのだろうけど、個人的には違和感があります。
そもそも人は、善悪、陰陽、幸不幸、その混血として生きているのだと思うからです。

ポジティヴな社会改革、素晴らしいと思います。それを掲げている人は信念も勇気もあると思います。でも、それが為されないからといって、マウントとりあったり怒りの矛先を向けあったりして窮屈になってしまうのは、やっぱりスジが違う気がします。
人は本来、曖昧で澱みながら生きるほかなく、ふとしたことでうっかり壊れてしまう存在だということから、目を背けていると思います。

昨日友人から「たまたまあの辺通ったから、ついでに墓参りしといたよ」と連絡もらって、自戒を込めてこのことを書いとかなきゃと思いました。なんだかんだ、散歩がてら墓参りしてる客仲間が結構いるみたいなんです。亡くなってからもう10年以上たっている、いまも。

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

起業前からやりたかったことが

やっとひとつ、実現できることになりました。
しれっと書いてますが、めっちゃめちゃうれしいのです。

もうかれこれ5年以上前になるでしょうか。
まだステーションを開設する前、とある大学のインターンシップに外部協力させていただいたことがあります。その時、お世話になった社会科学系の先生に「これからステーションを開設したら、弊社でも関わることができるでしょうか?」と伺ったところ、「もし3年がんばれたら、またその時に」とお返事をいただきました。

今年いおりは4年目を迎えることができました。

そこで、ずっとあたためていたアイディアのひとつ、「社会科学を勉強している学生さんに事務スタッフとして働いてもらう」を、あらためて先生にご相談してみました。

ありがたいことに講義の終わりにお話させていただくチャンスをいただき、今回の募集について説明させていただいたところ、なんと一週間で4名ものご応募をいただきました。志望動機はみなさん揃って「机上の学びだけでは社会の現実が見えないはず」と、まさにこちらの望んでいたことを明確に意識してくれていました。

実はこの大学の卒業生、官庁に入職したり、研究者になったりする方も多く、いわば制度設計に直接関わっていく人たちを常に輩出している大学です。わたしたち在宅ケアの現場は、そういう方たちに「現場を体感してもらう」役割を担ってゆくべきだと私は考えています。
現状の制度に歪みを感じているなら、やがて設計に関わる人たちに早くから現実を知ってもらうこと、現場が切実に感じるズレを、自然に(ここがデザインの大事なところです)知ってもらうこと、それが次の時代への一歩になると私は信じています。

面接でお話しさせていただいたところ、とてもしっかりした動機で応募してくれているのが伝わってきました。弊ステーションだけでなく、仲良くさせていただいている地域包括支援センターや、人権問題に正面から取り組んでいる方々なども紹介して、様々な「ケア」を体感してもらいたいですし、いおりがその窓口になっていきたいと思っています。

また、学生間の先輩後輩や部活動などで紹介しあえるバイトになったら、お互いに教えあったり、気軽にシフト調整をしたり、そして何より、自然と学生さんたちの会話の中で「ケア」という言葉が増えていくのかな、そうだといいな、と夢見ています。

あたためているアイディアはまだまだあるので、次の実装に向けてまた精進します。

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