20200415

真に正直であれるかどうかは別として、
ごまかさず言わなきゃいけない時は、誰にでもあります。

私にとって、いまが疑いなくその時です。

まずは、医療関係者の端くれとして、日々感染の最前線で闘っている方々(もちろん私の大切な友人やたくさんいます)に、心からの、魂からの、慰労と称賛を送ります。

二ヶ月前、私はこんな風に思っていました。
「インフルエンザの強いやつなのかな」
「うちは特定接種の指定も受けてるからなんとかなる」

とんでもなかったです。もうすでに五輪延期が遠い昔のことのようです。
個人的に、自分が今まで生きてきた中で最もあやうい時代に入ったと感じていますし、私たちは、間違いなく後世に語り継がれる時代を生きていると思います。国家間での対立構図がわかりやすい戦争はもう起きないにせよ、もし仮に起きたとしても、ここまで一斉に、一撃で、逃げ場のないダメージを負うことはないんじゃないだろうかとすら思います。基礎疾患がなく健常な若い人にとってはほとんど影響がない、とされているウイルスであるにも関わらずです。これが何を意味するか、現代を生きる私たちは、よくよく考えておくべきだと思います。詳細は省きますが、信頼と資源が逆流した途端に一瞬で地盤沈下する、そんな薄氷の上に建つ集合住宅に私たちは住んでいるということです。

そこで。
先日あるスタッフにも伝えたのですが、もうコロナ以前の世界は戻ってこないと私は考えています。コロナ以後をどう生きるかしかないのです。
では、コロナ以前の世界とはどういう世界だったでしょうか。居心地はよかったですか?未来に希望は持てていた?自分の可能性に挑戦できていた?早く死にたいと思ってなかった?あるいは抜け目ない人生を気に入っていた?そもそもコロナ以前に戻りたいと懐かしめますか?

正直に言います。私は、YesともNoとも言えません。
もちろん、起業したのは社会に対してチャレンジしたい何かがあったから、納得いかない現実を自力で解決しようとしていたからです。それは変わっていませんし、起業の理念は一ミリも変わっていません。ですが、先進国の一員として存在しているだけで、それだけの恩恵は間違いなく受けており、つまり自分は十分に種族における加害者だという認識も常にあります。善悪の話じゃないです。偶然の上に存在している自分が、何かや誰かを裁くことに抜きがたい違和感があるいうことです。

ただ、グローバリズムによる痛みと歪みは誰もが間違いなく実感していたとは思います。この仕事をしていると、まるで戦時下のような暮らしを強いられている(ここが大事です)ひと、心理的に闘争状態か鬱状態にならないと生存できないようなひと、信頼も資源も取り上げられたまま意思すら表現しなくなったひと、そんな人々がたくさんいることを理屈を超越してよくわかります。

放置してきたんですよね。見て見ぬふりです。
傷ついている人々を放置し、見て見ぬふりして、得たのがこれです。
とぼけているためなら、どんな理屈でもつけてきたんですよ。

コロナ後の世界をどう生きるべきでしょうか。
いや、今回はそんなもの用意されてないんですよ。
だから、あなたはどう生きたいか、どういう世界にしたいか、です。

私には、きっかけとして、ふたつ思い出されることがあります。

ひとつめ。
先日、久しぶりにジャック・アタリがテレビ出演していました。
だいぶ以前から「利他主義」をかかげていた氏ですが、今回のコロナでさらに「合理的な利他主義」を提唱していました。まさにですね。他人を感染させないこと、他人を守ることが、そのまま自分を守ることに直結するのです。10年ほど前に触れてとても感銘を受けた氏ですが、もう一度考えてみたくなるいい機会をくれました。

もうひとつ。
柄谷行人氏がカントを引用するときに用いる「他人を手段としてのみならず、同時に目的として扱う」という解説です。「手段としてではなく」というのが重要です。およそ現代を生きているひとは、離島でひとり自給自足でもしていなければ、誰もが他人を手段として利用しながら生きています。ただ、同時に手段として「のみならず」目的として認識することで、強度と持続性のあるネットワークを、またそれを構築するプロセスを創り出せないでしょうか。

最後に。
これだけのダメージの後ですから、どこかのタイミングで間違いなく「総体」を第一目的とするムーヴメントが起きるでしょう。私は反体制主義者でも革命家でもなんでもないですが、非常にあやうい局面がくるだろうと危惧しています。ですが、それ自体を否定することにはまったく意味がありませんし、悲観することもありません。そんなもの、いつでもあるのです。顕在化しているかどうかの違いだけです。大切なのは、自分は個体としてどう生きていくのか、自分の責任と自由を何に求めるのか、それだけが試されていくのだと思います。

フェデリコ・フェリーニ監督の名作『8 1/2』の重要なシーンでこんなセリフがあります。
「人生はカーニバルだ、ともに生きよう」

ひとが「ともに生きる」というとき、生者だけでなく、
とっくに亡くなった者たちも、まだ生まれてきていない者たちも、含まれると思います。

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