干支が一周して

明けてましたけれど、おめでとうございます。
昨年の大晦日、久しぶりに実家に帰り、父親から貰いものをしました。

12年前、父親の定年退職祝いに贈ったジャケットです。当時とは体型が変わり着れなくなったみたいで、よかったら着ないかと渡されました。当時、かなり無理をして買った一着で、少しサイズを直せば着れそうだし、是非自分で着ようと貰い受けることにしました。

とはいえ、12年前のジャケットですし、どこにお願いすればいいかわからず、とりあえずメーカーさんにメールで問い合わせてみました。名前は伏せますが、皆さん誰でも知っているレベルの有名メーカーさんです。

その対応は、個人的には残念なものでした。

12年前のものを直したい理由や経緯などすべてお伝えさせていただいたのですが、窓口のカスタマーセンターから二度ほど担当が変わり、最終的には、買ったお店に聞いてみてほしい、ただお直し可能かどうかもわからないので、とりあえず同じ内容を伝えて詳細を聞いてみてほしいとのことでした。

はじめにお断りしておきますが、先方の対応は、けっして間違った対応ではないと思います。言葉遣いも丁寧な文面でしたし、端的に回答してくださったのは間違いないです。ただ、自分だったらこういう対応はしないだろうな、弊社スタッフにもさせたくないなと思いました。

何に違和感を感じるんだろう、なぜ残念に感じるんだろう、自分なりに考えてみたところ、ひとつ手がかりが見つかった気がしました。

話はそれますが、たとえば。
Aさんはこういうことができるけど、私はできないし必要だと思わない。
私はできないし必要だと思えないけど、Aさんはこういうことができる。
この二文、説明している内容は同じなのに、だいぶ印象が変わりますよね。この順番をどちらかに固定したがる人、絶対にもう片方の言い方をしない人、まわりで見かけませんか?

ふと、感情の正体は順番なのかもと。

話は戻ります。おそらく今回のメーカーさんの対応で、一番はじめに「ご事情はわかりました、メーカーとしてなんとか対応させていただきたいです」的なメッセージをいただけていたら、その後のやりとりの結果、もし自分の希望とずれた結果であったとしても、さみしい気持ちにはならなかったような気がするんです。

このエントリー、メーカーさんを批判しているだけのように思われるかもしれませんが、まったくそうではなく、ものすごく自分ごとに思えたんです。誰かがそのひとなりの「希望」「願望」を訴えている時って、受け取る側からすれば、あるまとまったひとつの感情のように聞こえるけれど、本人にとっては、他人では窺い知れない「ためらい」や「迷い」、下手すれば「うしろめたさ」がくっついていたり、途方に暮れていたりするんだよな、だからこそサービスに関わる者として配慮が必要だし、特に在宅ケアのようなクリティカルな局面においては、「なんとか力になりたい」というメッセージを、はじめにまっすぐ伝えないといけないんだ、とあらためて感じたんです。

結局、ジャケットは町のお直し屋さんに出すことにしました。飛び込みで持ち込んでみたら色々と丁寧に教えてくださり、肩と袖を両方詰めないとと思っていたのですが、「とてもいいものだから、あまりデザインをいじらないほうがいいと思います。袖を詰めるだけでだいぶ印象が変わりますので、それでもなお肩が気になるようでしたら、そこからあらためて肩を詰めてみるのはいかがでしょう」とアドバイスいただいたので、その方針でお願いすることにしました。

12年、干支が一周する時を経ても、くたびれ感なくかっこいいままのジャケットをつくるメーカーさんもすごいと思います。来週、お直しから上がってくるジャケットを着るたび、これからずっと、きっと色々なことを思い出すのでしょう。付き合っていくのが楽しみです。

まあ、お直ししたところで、かっこいいジャケットがどれくらい自分に似合うかは、はなはだ不安ですが…。

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