小学生の頃、夏休みにはよく祖父母宅に行っていた。かつて大家族が暮らした古い家屋にはいくつかの部屋があった。居間、書斎、納戸、部屋が用途で分けられていることすらこどもには楽しい。その中のひとつに叔父の部屋があった。
叔父は、父親の6歳下の弟で、おれが生まれた時はまだ18歳だったから、向こうからしたら歳の離れた弟くらいに見ていたかもしれない。それに、6歳上の兄と言ったら、自分が小学生の時に高校生なわけで、だいぶ歳上の男性として感じていただろうし、その息子ならなおさら微妙な距離感だろう。
おれが小学生の頃には叔父はもう東京に引っ越していて、部屋は空いていた。叔父のことが好きだったし、叔父の部屋の空気感も好きだった。たくさんの本やレコードたちが、片付けられる日は永遠に来ませんオーラをまとったまま雑然と積み上げられ、後から知ったのだが、叔父は山崎ハコのファンクラブ創設者のひとりだったらしく、まあそういう人なのだ。
叔父の部屋には、叔父が使っていた勉強机がそのまま窓際に残っていた。そこからの眺めが好きで、もう誰にも使われることのない勉強机に座り、たまに外を眺めながら物思いに耽るふりなどをしていた。
蒸し暑い日だった。何の気なしに、がさがさと引き出しを開けていると、中からだいぶ年月をへた黄ばんだ原稿用紙が出てきた。どうやら叔父が小学生の頃に書いたらしい作文だった。
題名には、こどもの字で「犬を殺す日」と書かれていた。以前、祖母から「昔、犬を飼っていたのだけれど、事情があって保健所に連れて行ったことがある」と聞いたことがあり、きっとその犬のことだと思った。なぜだかわからないけれど、その題名を見た時、こどもながらに、やっぱりこの人は信用していい人なんじゃないかと感じたのをおぼえている。
それから何十年たった今も、叔父に会うと昔のままの感覚で話せるし、向こうもそんな雰囲気なのはなんでだろうと不思議だった。最近気づいたのは、そもそも叔父がおれのことをいわゆるこども扱いしなかったからじゃないかということだ。相手によって態度を変えないし、形式ばったことがめんどくさい人で、それは18歳離れた甥っ子であるおれに対してもそうだった。小さい頃に、相手からひとりの人間としてフラットに付き合ってもらったかどうかは、大人になってからの相互関係に深く影響を及ぼすのだと思う。
ここまでを、叔父が予後宣告された日に書いた。
正直もうだいぶ前から、本人から人生への執着や期待みたいのをあまり感じない、そんな印象はあった。でも、もともとそんな気質だったのかもしれない。それでいて気さくで知的でユーモアがあるのは変わらなかった。
去年、脳出血で軽度の歩行障害が出て、今年初めにはアルコール依存の治療で入院し、そのうち片側の手足が動かしにくくなって検査したら、肺が原発巣で脳に転移している大きな腫瘍が三つ見つかった。すぐに予後を宣告され、緩和病棟へ入り、昨夜逝った。
読書家でユーモラスで、酒と煙草はちょいとやり過ぎたかもだけど、いつまでも自分のこころの居所を見つけられない、何処へ行っても、誰といても、癒されることも満たされることもない、そんな根源的な寂しさを正直にまとっているあなたがおれは好きだった。
きっとあなたは、犬を殺す日も、他の人よりもたくさんのことを受け取りながら、自棄にもならず、置き場のない自分のこころに、その当時の小さなからだで堪えていたんだろう。そのことを書き残し、捨てなかった。らしいよな、と思う。
緩和病棟に入ってすぐお見舞いに行った時、すでに発語が困難だった叔父に、実は昔こっそり作文を見てしまったことを謝ったら、きょとんと目をひらいて、すぐにふっと笑った。これで、無邪気に引き出しを開けてしまったあの蒸し暑い夏の日も、本当に終わってしまう。
いつも別れ際は「健太郎、またね」だった。
またね。
さようなら。