実はここ半年間ほど、特に直近三ヶ月ほど、非常に落ち込んでいました。
無味乾燥な真っ暗闇にひとり立ちつくしているような感じでした。
できるかぎり仕事に支障が出ないようには気をつけていたけれど、気づいていた人もいると思います。ごく身近な人だけには、話し相手になってもらったり、壁打ちさせてもらったりしていました。おかげで、ようやく昨日あたりから少しずつ回復してきた感じがします。
ぐわんと一気に落ち込んだきっかけは、私事で色々あり、自分の中の根深いトラウマ、こどもの頃のトラウマに向き合わざるを得なかったことです。
トラウマの本当に怖ろしいところは、親しげに現在の日常に入り込んでくるところ。まるで散歩中の貰い事故のように、カフェの隣席での楽しい雑談のように、日常においてまったく準備できずに再会してしまうところです。ゆえに自分自身が生産的である時ほど、そうあろうとがんばっている時ほど、背中から刺される絶望の落差は激しいものになります。自分が大切にしている諸々が一瞬で離れていってしまう。これまでも何度もこういう体験はあったのですが、いろんな要素が重なって、今回は特に苦しく、自分の中でゴング鳴らさないと人と対話するのもむずかしい感覚でした。
ぼくは、けっして強い人間でもありませんし、要領のいい人間でもありません。挫折も失敗も数多く経験してきています。そもそもですが、要領のいい人ばかりが称えられる世界に可能性を感じない人間です。要領がいいということは、現在までの現実の構造にフィットできるというだけのことで、いわば現在を補強する役割をスムーズに担えるということです。ぼくはむしろ、それおかしいだろ、とか、もっといいアイディアがある、などの姿勢で生きている人、現実に対してファイティングポーズをとる人が好きなので、要領のいいことをまったく警戒しない社会は怖いなとすら思います。
余談ですが、これ似た構造に「バカにされる」ってのがあると思います。バカにされるのは感覚的にむかつきます。そしたら「バカにしている」側のことを想像したらいいと思います。バカにしているということは、「自分はわかってる」前提に立っているんです。ほんとにわかってるんですかね?その人。つうか誰かがやったことをわかってる気になってるだけじゃないですかね?
話を戻します。
要領の悪い人や不器用な人って、一瞬、自分が生きている現実の鏡になってくれる時があります(ぼくが、という意味じゃないですよ)。現実のシステムがどういうところに欠陥があるかを教えてくれる人です。うまくやれてるってどういうことなのか?何を取りこぼしているのか?を伝えてくれるとても貴重な存在だと思います。会社でも友人関係でも、もちろんその延長である社会でも。
東京はいよいよ蒸し暑くなってきました。
日々訪問に回っている皆様、くれぐれも体調管理を大切にしてくださいね。
そういえば「おだやかな人生なんて、あるわけがないですよ」 とスナフキンも言ってましたよね。